昭和41年07月16日 夜の御理解



 おかげを受けるのも和賀心なら、おかげを落とすのも矢張り和賀心。自分の心からあのおかげを落とす様な事のない様に、心掛けなきゃならん。ために何事にも信心にならせて頂いておかげを受けなきゃいけん。こういう実例が前にも2・3回御座います。私が記憶に残っておるのが2・3回ありますですがね。今朝も今日あの総代の高芝さんがもう御理解が終わる頃だったでしょうか。お参りになったみたいそいで総代一緒にお取次ぎを願、頂く事が出来られなかったですけれどまあそれまではいいんですがね。
 けれどもあの、あの人何時もあんな事をされる、まあ別に悪気でもなかろう。又は、あのあまり心に留めていないのかも知れませんから、こりゃ本当に一ペン注意しなきゃいけないなと私は思っていたんですけれど、総代だからこそ、実意丁寧神信心が誰よりもいうなら出来なきゃならんのに、総代だからと云って沢山ここに、お届けしなきゃならん人が残っておるのに、自分がすっと前に来てから、お取次ぎを願う。
 そりゃねえ、様々の問題があったり、一寸早く帰らなければならないという時には、「ちょっとお先に失礼します」位はいうて前に出て来なきゃあいけない。今日もお取次ぎ終わってから、そこの廊下んとこで皆が済む頃までお話しておられますもん。ですから急いだ訳ではないのに、何時もあんな事、と私はこう思うんです。今日も私あの原さん達一家お取次ぎ終わらせて頂いてから、あの一番最後の120人目です。ここんところに自然にそうなって来るのは確かに、自然が求めたもう修行ですよね。
 だから修行精神の多い人なんか、私こりゃ非常に有り難いと思いむしろ歓迎するんです。 自然にそう一番最後の所になって来た時なんかは、あの自然が求めたもう修行で、あり。又本人が修行精神が有る人なんかは(?)なんかは122人、120人目にお取次ぎさして貰うなんか、私有り難いと思うんです。ところがですね。特別な願をしなければならなかったり、あの病人さんもう、とにかくもう取次ぎしたある時なんかですね。わざわざそこへ飛び込んでくるような事がありますね。
 今日は、その一番最後に一人残っとるところに、誰が入って来るだろうかと思ったら。高芝さんがひょっこっと、入りこんで来たんです。本当に私そういう時に、本当にヒヤッとするんです。( ? )言わばその辺がですね、あのおかげも和賀心なら、おかげ落とすのも和賀心と云う事が分るでしょう。ですから、そう言う風に私気付かせて頂いたから、今日はその事を切実に、私あの感じましたから、言いはしませんでしたけれど、願いましたですけど。
 そしたら今日午後からあの善導寺と椛目の、いわゆる善導寺と言われますけれども、ほな椛目という所、ぐそこですよね。あそこで自動車事故があった、しかも自動車が大破しておる、子供達が見に行ってから高芝のおっちゃんの車と同じ車じゃったと。聞いた時に私は「おかげ頂いたと」と思ったんですよね。そりゃもうそう、あなた方に分からん。今日も私あの熊本の村上さんが来てから、信心そのデリケートな事に付いて色々お伺いさせて貰うけれど、そん求めなければ、求めてるんだけれども。
 私がいうそんデリケートな事は解る筈はないですけどですね。例えばですね、そう言う様にしてでもしるしでも見せなさるです。車が、私が本当にその事を切実に祈らせて頂いた。まあこれを分り易く言うならば、高芝さんが、ああいう面で謝らなならんとこをですね、まあこう云う事ででもお祭り変え下さったと言った様な。丁度その村上さん、そのいやあの猫が、あの、まあ非常に苦しむちゅう訳ですね。
 飼い猫がそいでこら猫の先祖の、いわば御霊祭りでもさせて頂いたらおかげ頂くかもしれん、ちゅうてからその猫の先祖御霊祭りをしたちゅう。そしたら本当にもう嘘の様におかげ頂いたというその猫が。ところがです。それから二時間ばかりしたら、その猫が行方不明になっておらなくなったと、例えばこんな事説明すると実にデリケートなデリケートな事があるんですが。例えば、そういう信心にならせて頂く時にです。猫の事でも願わなおれないという信心に、成らせて貰う時にです。
 神様の喜びがその猫なら猫にめぐりをからわして、どこにか追放しなさると言った様な感じですね。まあだ説明不足ですけれども、とにかくあの例えばデリケートなのですね。例えば今の様な例はあの小野先生がそうでした、朝参りして来てあのいわゆる皆が待っているとこに飛び込んで来た。一番最後にここだと自動車あの他所の家の中に突っ込んで、怪我は五歳ませんでしたけれども、事故があった時もそんな事でした。
 それからあの、稲員の高山さんが娘さんが亡くなられる時が、もうその事でもう本当に一生懸命、自分な毎日拝んどるんですけどもです、子供の病気治して頂きたいと思うて、お参りして来ておるんですけども、人を押し分けてここへ出て来るという、その心が神様に叶わんです。そういう例がいくらも御座いますがですね、本当にあのお陰を頂くのも和賀心ならです、おかげの言わば難儀の中に自分が飛び込む様な、地獄の中に自分が飛び込むような、火の車を作る大工はおらないけれど。自分が作って自分が乗るなりと言った様な、その、仏教の経華ですが。
 そのうたが有りますが、自分が作って自分が乗るのです火の車に、信心させて頂いとれば尚更そこが分らなけりゃならないでしょうが。( ? )総代なら総代というなら、おかげを頂いておるなら、尚更の事人の手本になる様な信心が出来なきゃならんのに、自分が総代だからといって威張っている訳でもなかろう。人を軽く見ている訳でもなかろうけれどもむかつく。
 いうならば。ちょろっと来てから、なら、後ろに座ってた人達がどう言う風に思うかも分らん。この人ばかりは呆れた。総代さんち言うちから、威張ってからと言う風に思うかも知れません。一言の挨拶もなしにと言うかも知れません。誰だって朝は忙しか。まっ忙しいなら忙しいで、一言いうて「お先に失礼しますと。これならまだ分る、忙しくない証拠にやっぱりここで暫くお話をしておられる。そげんゆっくりあるとなら、皆が済んでからでもゆっくりお届けされる。
 それこそ、ここんとこに、入らんでもいいのにと、こう私思うんです。そ云う事からいろいろ感じさせて頂く事が御座います。信心の微妙、信心の微妙さと言うか。私共の幸、不幸の微妙さとでも申しましょうか。信心して、お互いが幸せになりたいという願いを持ちね、幸せになれれる道を、お互いが歩いているので御座いますから、道を教えて頂いておるので御座いますから。
 その道をあるかなければならんのに、そういう道を教えて頂きながら、しかも、今は幹部だ総代だと言いながら、そう言う様な事では神様はお喜び下さらないですね。いわゆる和賀心からそういう境地にね、言わば苦しい所へ自分が飛び込まにゃならん様な事を自分で作って、火の車を作って自分で乗る様な事でするのです。ここん所は、本当にその、今の歌がピッタリです。
 どうでも神様が好きなさる訳でもなからなければ、誰が作ったのじゃない、自分が作って自分がその火の車に乗るのである。おかげの有るもなきも和賀心である。矢張りおかげを落とすのも、矢張り難儀なお思いをしなきゃならんのも、矢張り自分が作っておるのです。これはもう皆んな一つ、その高芝さんなら高柴さんの例を取りましたけれど、高芝さんだけの事じゃないです。
 お互いの一人一人の中にね、そう云う様な本当に信心させて頂きよってから、反対の方へ自分が言わばその段々塵も積もれば山となるでですね。そういう難儀をしなきゃならない様な元を自分が作りよる。こんくらいの事は判るまい。こんくらいな事。実意が欠いとる事は判っているけれども、こんくらいの事よかろうと言う様な事はです、とり返しの付かない様な事にすらなって来るんで御座いますから。
 おかげ頂かせて貰わにゃならんとこう思うです。どうぞ、おかげのあるも無きも和賀心ね。おかげを落とすのも、難儀をしなけりゃならんのも自分の心からね。神様が例えばめぐりの為に難儀を求めておられる、修行を求めておられる。それはお互いが合掌して受けて行こうとする意欲を持ってそれを、進んで行きゃ必ずお取り払いが頂けれる。けれどもお取り払い頂くかた側にです、自分が作って行くならどう云う事なるですか。
 そういう難儀な元も何にもないのに、自分が難儀の元を作って行く、そこのところを何事にも実意になれよと「信心する者は何事にも信心になれよ」と全ての事を実意を以って大切にと現金光様が仰るのもその事。こういうな事ですね。迂闊にです、自分が威張ってる訳でもない、上役だからと云う訳でもないのだけれども、迂闊にしてです。言わば120人目にここでいうなら自分が飛び込んで来る様な事があるんですよ。そげん時私本当に惜しいなと思う。
   どうぞ。